明智光秀・天海説の真相!かごめかごめの歌詞に隠された意味に驚き!

本能寺の変で織田信長を死に追いやり天下を獲ったものの、逆賊として追われ、たった13日で殺されてしまった明智光秀。

その天下の短さゆえ、「三日天下」という四字熟語までできたほどです。

 

しかし、本能寺の変のあと、すぐに死んだと思われていた明智光秀が、生きて徳川幕府で活躍していたという説があります。

今回は、明智光秀と同一人物ではないか、と言われる天海僧正についてお話ししていきます。

 

明智光秀は死んでいなかった?天海説ってなに?

引用元:https://cmeg.jp/w/yorons/113

本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、豊臣秀吉らの軍勢に追われ、すぐに命を落とすことになります。

しかし、様々な根拠から、明智光秀は死んでおらず天海僧正として生き延びていた。

そして、戦国が終わり落ち着いた江戸時代になって徳川幕府に貢献したのではないか、という見方があるのです。

 

天海僧正とはどんな人なの?

天海僧正は、天台宗の大僧正で、南光坊天海、智楽院などの名前を持ちます。

はっきりとした生まれはわからず、安土桃山時代から江戸時代初期まで、100年以上生きたと伝わっています。

 

徳川家康が江戸幕府を開く前から側に仕え、江戸幕府を開いてからも、朝廷とのやりとり、各寺社との交渉など、重要な役割を担いました。

徳川家康の死後も、江戸幕府二代将軍徳川秀忠、三代将軍徳川家光と三代にわたって仕え続け、江戸幕府の基礎を築くのに、深く貢献したと言えます。

 

天海僧正の生まれについては、はっきりとした記録が残っておらず、本人も弟子に自らの生まれについて話さなかったのだそうです。

そのため、将軍の子である説や、東北地方の武家蘆名氏の生まれである、など正体がはっきりしていません。

そして、明智光秀=天海僧正説も、いくつかある説のうちの一つです。

 

 

明智光秀が天海僧正と言われる理由とは?

根も葉もないところに噂は立ちません。

知識人の中にも、明智光秀と天海僧正が同一人物だという説があるのには、それなりの根拠があるからです。

またその根拠も一つではありません。

明智光秀が天海僧正だと言われる理由について、一つ一つ細かく見てみることにしましょう。

 

天海僧正と日光東照宮の謎

川家康を祀る日光東照宮は、徳川家康の遺言により建てられた神社です。

日光東照宮の建設には、天海僧正も深く関わっており、同じ敷地内に天海僧正を祀る慈眼堂もあります。

 

江戸幕府と深く関わりがあった天海僧正と、江戸幕府初代将軍徳川家康を神として祀る日光東照宮は切っても切れない縁があるわけですが、そこに明智光秀がどう関わってくるのでしょうか。

 

日光東照宮のあちらこちらには、徳川家の葵の紋はもちろんのこと、建設に携わった武将や江戸幕府に深く関係のある武将の家紋がちりばめられています。

その中の一つに、明智光秀が使っていた桔梗紋と酷似したものがあります。

 

そのため、死んだことにして天海僧正になりかわった明智光秀が、自らの名残に桔梗紋を残したのではないか、と考えらえているのです。

もし本当に明智光秀が天海僧正なのだとしたら、大仕事だった日光東照宮にちょっとぐらい自分の印を残しておきたかったかもね、と思います。

 

天海僧正と春日局の謎

次に登場するのは、春日局です。

春日局というと、江戸幕府三代将軍徳川家光の乳母で、家光の時代には、大奥でも大きな力を持った女性ですね。

 

天海僧正が江戸幕府に仕えたのは、三代将軍家光の時代まで続きますので、もちろん春日局との面識もあったことでしょう。

では、ここにどのように明智光秀が関与してくるのか。

少しややこしくなりますが、一つ一つ辿っていきましょう。

 

春日局という人は、美濃国(現在の岐阜県あたり)の武将、斎藤利三の娘です。

春日局の父親である斎藤利三は、明智光秀の重臣で、本能寺の変の首謀者の一人です。

ここで、春日局と明智光秀のつながりが出てきましたね。

 

でもこれだけですと、明智光秀が天海僧正だと言われる理由にはなりません。

春日局が徳川家光の乳母になったことに重要なヒントが隠されています。

 

父親である斎藤利三は本能寺の変のあと、豊臣秀吉との戦いに負け、首をはねられます。

まだ幼かった春日局は、母方の実家に身を寄せ、母方の親戚である公家、三条西公国によって養育されます。

そのため、書道や華道など、公家の娘が育つうえで身に着ける教養を春日局も身につけていきました。

 

このとき身につけた教養が、家光の乳母となるときに有利に働いたと考えられています。

 

ほかにも、乳母として入内する前に結婚していた夫の武勲も理由としてあげられています。

家光の乳母は公募によって決められた、と記録が残っています。

 

しかし、将軍の息子、しかも長男で次期将軍になるかもしれない子の乳母を公募で探す、というのは、いささか腑に落ちない話です。

身分の高い武家の女性、というのならわかりますが、春日局の実家もそれほどまでに大きな家ではありません。

 

では、春日局を乳母とすることを天海僧正が推挙したとしたら、どうでしょうか。

初代家康、二代秀忠と二代に渡って、信頼を勝ち得ていた天海僧正の言うことなら、と春日局が登用されてもおかしくありません。

 

しかし、天海僧正が春日局を推挙する理由はありませんが、天海僧正が明智光秀だったとしたら理由が生まれてきます。

 

春日局は重臣であった斎藤利三の娘。

自分に長く仕えてくれた重臣の娘を、次期将軍の乳母として推挙してもおかしくはないですよね。

ここから、天海僧正は明智光秀だという説が浮かび上がってくるのです。

 

 

天海僧正の筆跡と比叡山・石灯篭の謎

さて、ここまでは外堀を埋めるような状況証拠が多かったですが、実際の明智光秀と天海僧正を結びつけるようなものはないのでしょうか。

昔の人物なので、顔写真であるとか、DNA鑑定なんてこともできません。

そこで考えられたのが、筆跡を比べてみる、という方法でした。

 

幸いなことも、明智光秀も天海僧正も書きしたためたものがあり、いろいろなテレビ番組などでも特集が組まれています。

筆跡鑑定の権威の先生が鑑定されたことも幾度かあります。

 

最終的に「おそらく別人のものだが、完全に関係のない人物というわけでもなさそう」というわけで、「光秀本人ではないが、血縁なのではないか」というような結果でした。

 

しかし、明智光秀としては生きていることがばれるとあまりよろしくないわけです。

すぐに正体がばれそうな筆跡は、あえて変えてみたり、気のおけない身近な人間に書かせていた、なんてこともありそうですよね。

 

もう一つ、明智光秀が天海僧正である、という物的証拠としてあげられるのが、比叡山松禅寺にある石灯籠です。

この石灯籠には寄進者の名前と日付が彫られています。

 

問題の石灯籠には、「願主光秀」「慶長二十年」の文字が。

慶長20年というと、西暦にすれば1615年です。

本能寺の変があり、明智光秀が死んだとされているのが1582年ですから、死んだはずの光秀が生きていて、比叡山に石灯籠を納めたに違いない、という考えもうなずけます。

 

ただし、明智光秀と明記されているわけではないので「光秀」という名前だけでは別人の可能性もありますし、明智光秀が天海僧正である、という決定打にはならなさそうです。

 

天海僧正と徳川家康の謎

明智光秀が天海僧正であってもおかしくない理由がいろいろと出てきました。

では、本能寺の変のあと、一度比叡山の身を隠した明智光秀は、なぜ天海僧正へと身分を変えてから、徳川家康の元を訪ねたのでしょうか。

 

家康を頼った理由にも諸説あります。

本能寺の変の発案者は家康だったのではないか、というような説もあります。

ただ、冷静な目で見れば、本能寺の変の後の状況で、明智光秀が頼ることができたのは、徳川家康だけだったのでしょう。

 

当主である信長を滅ぼしてしまった織田家は頼れません。

わざわざ大陸から戻ってきて命を狙ってきた豊臣秀吉も頼れません。

では当時の権力者で残るは徳川家康のみです。

 

私はあえて明智光秀が徳川家康を選んだのではないか、と考えます。

明智光秀と徳川家康には、幼い頃苦労した、という共通点もありますし、織田信長の元に仕えていて、それなりに人となりもわかっています。

 

また、明智光秀は領民思いで、太平を願い、それを成し得る君主を探し求めていた、とも言われています。

明智光秀は、徳川家康ならば自分の望んだ太平の世を作ってくれると信じて、身分や姿を変え、天海僧正として江戸幕府に貢献した、と考えてもおかしくありませんね。

 

 

明智光秀=天海説と『かごめかごめ』の関係性

『かごめかごめ』のわらべうたの中にも、明智光秀と天海僧正を結びつける暗号が隠されているという見方があります。

少し長くなりますが、『かごめかごめ』の歌詞の順に一つ一つたどっていきましょう。

 

まずは「かごめかごめ」ですね。

「かごめ」は漢字に直すと「籠目」となります。

昔の籠を思い浮かべてもらうと、竹で編んでありますよね。

その網目模様をよく見ると、六芒星という文様になっています。

 

天海僧正が創建に深く関わった日光東照宮。

江戸幕府と深く関わりのある江戸城、駿府城、佐渡金山。

明智光秀の血縁である土岐氏の領土岐阜県土岐市、明智神社。

引用元:https://hontoko-lab.com/

これら6つを線で結ぶと六芒星になります。

 

次に「籠の中の鳥は」「いついつ出やる」と二つ続けて見てみます。

籠目=六芒星の中にある鳥の意味でとらえることができます。

鳥→とり→とき→土岐、と変化し、明智氏の血縁である土岐氏を表していると考えられます。

 

2つのフレーズがつながって、いつか土岐氏に縁のある明智光秀が戻ってくる、という意味になります。

 

さらに、「夜明けの晩に」に進みましょう。

夜明けなのに晩、よく考えると変なフレーズですね。

 

しかし、この「晩」というのは終わりの意味。

夜明けの終わりということは日の出、ということです。

日の出には、日の光が射してきますので、日光東照宮を暗喩しているとされます。

 

 

もうそろそろ終わりが近づいてきましたね。

「鶴と亀がすべった」です。

私たちは勝手に「鶴と亀が滑ってこけた」というようなイメージを持っていますが、「すべる」には、「滑る」以外の漢字もあります。

「統べる」も「すべる」と読みますね。

 

鶴→つる→福井県敦賀(つるが)、亀→京都府亀岡、どちらも明智光秀が治めた地域です。

また、鶴は空を飛ぶので「天」を、亀は泳ぐので「海」をそれぞれイメージさせ、二つ合わせて「天海」となるとも考えられます。

すべて合わせて考えてみると、鶴と亀の領主だった明智光秀が天海となって江戸幕府を統べるのだ、という意味になりますね。

 

では最後に「うしろの正面だあれ」について見てみましょう。

明智光秀の生まれは、はっきりとはわかっていませんが最有力地は岐阜県可児市と考えられています。

可児から日光東照宮を正面に向かうと、後ろの正面は、大阪府岸和田市になります。

 

岸和田には、日本で唯一明智光秀の肖像画が保管されている本徳寺というお寺があり、ここでも明智光秀とつながりが見えてきます。

 

「かごめかごめ」の全体を通して、明智光秀を天海僧正と結びつけるような意味が多く出てきますね。

これを最初に発見して人は本当にすごいな、と思います。

根拠がしっかりしていて、思わず納得してしまいますね。

 

さて、ここまでさまざまな明智光秀=天海僧正説を裏付ける理由を見てきました。

明智光秀は天海僧正である、という説には、賛否両論さまざまあります。

それでも私は領民思いで慕われていた明智光秀が、生き延びて思い描いた平和な江戸の時代を見られていたのなら良いのに、と思わずにはいられません。



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