ヒトラーとはどんな人かわかりやすく解説!知られざる人間性や逸話とは?

多くのユダヤ人を苦悩と恐怖のどん底に叩き落した独裁者アドルフ・ヒトラー。

今回の記事では、アドルフ・ヒトラーの人間性やメンタリティーに注目し、「稀代のカリスマ性を誇った1人の人間がなぜあんな残虐な事態を生んだのか」という背景を解説していきます。

 

あなたの知らないアドルフ・ヒトラーの素顔に出会えるかもしれません。

是非最後まで見逃さないように熟読して行ってくださいね!

 

ヒトラーとはどんな人だったのか?独裁者の歴史をわかりやすく解説

アドルフ・ヒトラーの生涯は実は謎に満ちていて、未だに不確かなことが多いと言われています。

ナチス政権下では危険な事案こそ記録に残さず口伝えであったことも勿論影響するかもしれませんが、何より本人が語りたがらず口を閉ざしていることが多かったからとも推測されています。

 

ここでは時系列にそって、長年研究されてきたアドルフ・ヒトラーという人物の歴史を紐解いて「なぜ歴史上最悪と言われる独裁者が出来上がってしまったのか」を様々なエピソードからじっくり考察して参ります。

 

ヒトラーの青年時代は恵まれない家庭環境(危険思想はここから生まれた)

1889年4月20日、アドルフ・ヒトラーはオーストリアのブラウナウで生を受けました。

アドルフ・ヒトラーの父アロイス・ヒトラーは父親不明の私生児であったとされ、多くの女性と関係を持つようなタイプの男性だったことが知られています。

アドルフ・ヒトラーの母であるクララ・ヒトラーは父アロイス・ヒトラーにとって3番目の妻であると同時に、アロイス・ヒトラーの義父の子供でもある女性だったことが分かっています。

このような複雑な家系に生まれたためかアドルフ・ヒトラー自身はその出自について多くを語りたがらなかったことが分かっており、現在でも謎が多く残っています。

 

アドルフ・ヒトラーは幼き頃こそ聞き分けの良い少年だったとされていますが、父親の暴君のような振る舞いに対して、徐々に精神のバランスを崩していった可能性を指摘されています。

具体的には父アロイス・ヒトラーが農業事業に失敗したことによる鬱憤を子アドルフ・ヒトラーを痛めつけることで晴らすようになっていき、

  • 苛立つと鞭で叩く
  • 無理に税務事務次官にしようと税務事務局に連れていく

など暴力的な態度が目立ちました。

 

この支配的な父親の態度に嫌気がさし、学校でも教師に対して反発するようになったとされています。

そのことが影響し学校の成績は芳しくなく、留年を繰り返したことが分かっています。

そのためアドルフ・ヒトラーがしっかりと卒業したのは小学校までだったようです。

 

 

アドルフ・ヒトラーの死後CIAの前身であるOSS(戦略諜報局)の依頼でアドルフ・ヒトラーの精神分析を担当した、ハーバード大学教授の精神分析医は、

「幼少期の家庭での抑圧された精神がアドルフ・ヒトラーの精神分裂症状に影響を及ぼした」と示唆しています。

 

その研究によると、アドルフ・ヒトラーが子供の頃は自身の病弱な見た目に嫌悪感を感じており、その対極にある絶対的な支配・獣の圧倒的な強さなどの力による支配を崇拝することで精神のバランスを保っていたと考察されています。

 

また子供の頃に両親が愛し合う姿を目撃してしまったことから父親に対する憎悪を一層募らせていったとされていて、そこからアドルフ・ヒトラー自身が“完全なマゾヒスト”タイプの性的趣向の持ち主になっていったと推測されています。

 

さらには屈折した家庭環境や父親への嫌悪が、アドルフ・ヒトラーの政治理念にも大きく影響を与えたことが分かっています。

というのも、父アロイス・ヒトラーはハプスブルク君主国の熱心な支持者だったことが知られています。

ハプスブルク帝国主義は多民族国家であるハンガリーやオーストリアを尊重する考えであり、その崩壊を意味する大ドイツ主義を父アロイス・ヒトラーはいやみ嫌っていたとされています。

 

父親の女性にだらしない性格からか混血を不潔と考え、後にユダヤ人を排斥するまでに至ったことからも分かるように、アドルフ・ヒトラーは父親の存在を否定することに繋がるドイツ民族主義に心酔していったのです。

 

父親の力による支配を嫌がり政治的趣向も真逆ながらも、父親と同じように支配的に他人を抑えつけ傷つける道をたどっていく過程が垣間見えるエピソードに思わず複雑な気持ちになりますよね。

 

ヒトラーは画家を目指すも挫折

ヒトラーは画家志望で、名門美術学校である『ウィーン芸術アカデミー』を1907年・1908年と受験したことで知られています。

彼の熱意は並大抵のものではなく、受験に際しウィーンへの移住をしているほどだったことが知られています。

ところが、試験結果は成績不振のため連続不合格。1909年には浮浪者収容所に入るまでに至りました。

 

アドルフ・ヒトラーは本人の絵について「古典派趣向」と口にしており、当時台頭してきた幻想的で退廃的な作風で知られる「世紀末美術」に対しては自身の作風と対局の存在であるためか嫌悪感を露わにしていたことが知られています。

 

世紀末美術を代表する作家エゴン・シーレに対しては特に顕著に不快感をあらわにしていたことが分かっており、それはアドルフ・ヒトラーが美術学校に不合格になった試験における合格者がエゴン・シーレであることを意識しての態度であったとされています。

アドルフ・ヒトラーは独裁者として権力を握った際には、世紀末美術を始めとする印象派以降の芸術は全てを弾圧していくことになりました。

この背景には芸術アカデミーの不合格が自身のコンプレックスとして深く根付いてしまったことが理由と予想出来ます。

 

 

ヒトラーは兵役中に精神病になっていたことがある

ヒトラーは政治家になる前、第一次世界大戦中に兵役に自ら志願し参加していました。

4年間で40回あまりの戦闘に参加、1914年には伍長としては異例の“一級鉄十字章”という当時の最高武勲を受賞するなど華々しい経歴がありました。

 

しかし、その傍らヒステリーや戦争の毒ガスの影響から失明状態に陥り強迫観念の症状も見られたため、精神科医からの治療を受けています。

その他にも今で言う不眠症や頻繁放屁などの“医薬書を書けるほどの多くの精神疾患”を患っていたとされ、劇薬にほど近い薬を服用していたのではないかと予想されています。

 

ただ、そこまで多くの病歴があったかどうかについては、研究されている説によって違いが見られ正確なことは現在でも判断材料が乏しいというところが真実です。

生涯を通して服用した薬によって後遺症のようなものが、アドルフ・ヒトラーの晩年に影響を及ぼした可能性も示唆されています。

 

ヒトラーは兵役から政治家になり、国民選挙でドイツ国の首相(独裁者)に

アドルフ・ヒトラーが軍人時代にドイツ労働者党の情報収集をする、いわばスパイ任務についたことがあります。

しかし任務中に知ったドイツ労働者党の党首アントン・ドレクスラーの“反ユダヤ主義”に心を打たれ政治家に転身することになったのです。

しかし、一般庶民の出であり最終学歴は小学校程度とお世辞にも能力的に充実しているとはいいがたい経歴の持ち主であるアドルフ・ヒトラー。

そんな彼が、なぜドイツの政治家のトップに君臨することが出来たのでしょうか。

 

一つには時代が味方をした側面が考えられます。

第一次世界大戦の敗戦及び世界恐慌による大不況によって、それまでのドイツ政府はすっかり弱弱しい政権になってしまったと民衆の目には映っていました。

 

そこに目をつけたアドルフ・ヒトラーは、敵とドイツを強国する目標を明確にするスピーチ労働者や若者・下位中産階級の人々の心に存在感を焼き付けました。

アドルフ・ヒトラーの別の面での特筆すべきこととしては演説を始めとする、“大衆に向けたプレゼンテーション能力の高さ”であったと言われています。

 

混沌とした世の中に刺さる独特な抑揚のつけ方をはじめ、メディアや宣伝をプロカンダの手段として利用するなどして大衆から選ばれた指導者という立場になりました。

そこには大衆は強者にリードされ自身は楽についていく立場にありたいものだという持論を持っており、その視点の鋭さには現代を生きる私たちも思わずぎくりとするような事実であると言えます。

 

この大衆心理を見抜く目と心に響くスピーチ力を武器に、1932年国民選挙で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は33%の支持を得て第一党になりました。

そして翌年である1933年にはついにアドルフ・ヒトラーがドイツの首相にまで上り詰めることとなってしまったのです。

 

 

ヒトラーが党首だったナチス党とはどんな政党?なぜ支持されたの?

ナチス党は国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)の通称で、ドイツでは一般に「ナチ党」と呼ばれていました。

ナチス党の前進であるドイツ労働者党は、反ユダヤ主義と世界恐慌による不況にあえぐ労働者の救済を訴えていました。

 

具体的な主張内容としては、

『ドイツ国民がいかに優秀な存在であるか、敗戦により輝きを失ったドイツという国に自信と誇りを回復させる重要性』

をメインテーマに掲げており、政府に反発していた中産階級がこれを支持したという構図でした。

 

1919年アドルフ・ヒトラーが入党してからは巧みな演説によってさらに大衆の支持を得て、1920年に党の名称を“国民社会主義ドイツ労働者党”に変更したのです。

 

1923年のミュンヘン一揆の失敗でアドルフ・ヒトラーが投獄された影響を受け一時的に勢いが停滞するも、早期に釈放されたことを受けその後は右肩上がりに支持率が上昇していきました。

その結果、1937年7月の総選挙では37%という圧倒的な支持を得て第一党になるなど勢力を拡大していきました。

この頃からアドルフ・ヒトラーは軍部や経済界との結びつきを強固にして自らの基盤を作っていき、自身がドイツの首相という立場になると全権委任法を成立させ独裁者としての地位を確固たるものにしました。

 

アドルフ・ヒトラーは対外国に対する交渉力もあったようで、その話術を活かし第一次世界大戦後に締結されドイツの領土を解体される原因となったベルサイユ条約の無効化にこぎ着けました。

軍事力を高めながら領土の回復も行うという成果を見たドイツ人は「強いドイツが返ってきた!」と狂喜したと言います。この件でますますナチス党は人気を得たと言えるでしょう。

 

 

ヒトラーの知られざる人間性やエピソードとは?

「ヒトラー=ユダヤ人の迫害」というイメージがこびりついている方も多いと思いますが、人となりや趣味嗜好についてご存じの方はあまりいらっしゃらないのではないでしょうか。

ここからはヒトラーがどんなものを愛し、どんな風に人生の修羅場を乗り越えてきたのかにスポットライトを当ててみようと思います。

 

知られざるエピソードの数々に思わず、アナタの中のアドルフ・ヒトラーの印象がゴロっと変わるかもしれませんよ?

 

ヒトラーはディズニーファンだった

意外に感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、ディズニー作品の生みの親ウォルト・ディズニーとアドルフ・ヒトラーは同じ時代に生きた人です。

ウォルト・ディズニーはアドルフ・ヒトラーの存在をいやみ嫌っていたものの、アドルフ・ヒトラーはディズニー作品の大ファンであったようでその関係性は一方通行だったようです

 

第二次世界大戦中『総統の顔』というタイトルで、ドナルドダックがドイツをイメージしたナチランドという町を舞台にナチス信者のような描写で描かれるプロカンダ作品が存在しており、アカデミー賞短編アニメ賞を受賞しています。

この点からもウォルト・ディズニーのナチス・ドイツに対する嫌悪感が伝わってくると同時に、戦争と悲しみを背負わされたドナルドダックにとても切ない気持ちを抱いてしまいますよね。

 

他方ナチス政権下ではディズニー作品の上映を禁止していたものの、アドルフ・ヒトラーがファンであったことは現在周知の事実になっています。

 

それを裏付けることになったのはノルウェー北部にあるロフォーテン戦争博物館でアドルフ・ヒトラーが描いたとされるディズニーの“ピノキオ及び白雪姫に登場する小人”の水彩画が見つかったことに起因します。

2008年2月23日に上記の絵について公表した同館長によると、オークションによって手に入れたヒトラー所有の別の絵画の中にこれらの絵が隠されていたとのことでした。

絵にはA.H.のサインが記入してあり、アドルフ・ヒトラーの作品である可能性が高いとされています。

 

 

ヒトラーは42回も暗殺されかけたことがある

長い世界史上最も異端な存在であると言ってよいアドルフ・ヒトラーですが、当然恨みを買う可能性も異常なまでに高かったことが予想されます。

その生涯を終えるまでの間、稚拙なものから綿密な計画まで、暗殺未遂の数は42に上ると言われています。

 

その手法は様々で、身の回りのものに毒を仕込むことや、大がかりなものだと時限爆弾を作成しヒトラーを狙うなど多岐にわたりました。

 

そんな数ある暗殺計画の中でも特に有名なものに、トム・クルーズ主演映画『ワルキューレ』の題材になった“7月20日事件”があります。

 

1944年7月20日、ヒトラーに反感を抱いていたクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が、爆弾入りのかばんをポーランド北東部の総統大本営の会議室に置き去りにした出来事です。

当初の計画ではこの件を発端に各地で反乱を起こし、ナチス党の支配を終わらせることが狙いでした。

 

しかし、肝心の爆弾は作動したものの爆弾入りのかばんが移動してしまったときに爆発したため肝心のアドルフ・ヒトラーは軽傷で済んでしまったのです。

ここからは反乱因子を徹底的に叩き潰すための報復措置が取られることとなっていまいました。

 

事件発生後わずか1日の間に、この事件に加担した約700人が捉えられその内の200人が処刑されこの世を去りました。

民衆レベルの反乱因子では国家警察体制を敷いていたナチス政権下のドイツにおいて意味をなさなかったため、軍人でかつアドルフ・ヒトラーに接触できる程度の地位にある人間が反乱を企てた点にこの事件のポイントがあります。

 

反ヒトラー派と言われるこの事件の軍関係者は「黒いオーケストラ」と呼ばれ、正義のために力を尽くしたメンバーはドイツでは英雄という認識で国民に受け入れられています。

 

第二次世界大戦の終戦間近のタイミングでありながら失敗に終わったクーデターによりナチス政権の被害者が増えてしまったことには心を痛めるばかりです。

しかし、ここまでしても殺されず自ら命を絶つまで生き延びたアドルフ・ヒトラーの悪運には思わずゾッとさせられます。

 

ヒトラーは子供や女性には優しかった

ユダヤ人の人種差別のイメージが強く暴力性がフィーチャーされがちなアドルフ・ヒトラーですが、実は女性や子供の前ではかなり紳士的なふるまいで通しており優しかったのではないかと言われています。

 

というのも、アドルフ・ヒトラーは持ち前のカリスマ性ゆえに女性支持の高さが他の政治家と比べて抜きん出ており、花束を渡す女性たちがドキュメンタリー映像などにはよく登場するほどです。

 

アドルフ・ヒトラーは自殺直前に長年のパートナーであったとエファ・ブラウン入籍しますが、それまでエファ・ブラウンの関係は伏せられておりずっとシングルを貫いていました。

その理由として女性からの支持を意識してプライベートを明かさなかったのではないか、と推測されています。

現代社会でいうと、男性アイドルが親密な女性の存在などプライベートをひた隠しにしてファンに愛想を振りまく感覚と同じようなものであると考えられますね。

 

子供に対してもイメージ戦略的な部分もあったと言われていますが、国民啓豪並びに宣伝相のパウル・ヨーゼフ・ゲッペルスの6人の子供をよく可愛がっており子供たちからも慕われていたことが分かっています。

その他にもユダヤ人の血が入った少女との交友関係を深めていたことが知られており、その様子をおさめた写真が後にアメリカのオークションで競売にかけられたこともありました。

ユダヤ人600万人を死に追いやるという狂気の沙汰としか言いようもない事態を生み出しながらも、女性や子供に対して慈しみの心を持ち合わせるという“考えのアンバランスさ”に驚かされるアドルフ・ヒトラーの存在。

 

その異常性と矛盾に満ちた内面を個人的には受け入れられない気持ちではありますが、だからこそ戦争を終え80年ほど経過した今でも人々の研究の対象にあり続けるのだと思うと不思議と納得できるような気持ちにもなります。



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