徳川家康の死因真相!好物の鯛の天ぷらが胃がんの原因って本当?

『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス』の詩が有名な徳川家康。

戦乱の世にあって73歳でこの世を去った徳川家康ですが、死因は未だに謎で確固たる証拠が見つかっていません。

 

そこで今回は

  • 徳川家康の死因にはどんな説が存在するのか
  • 健康オタクとして知られる徳川家康の健康維持の方法
  • 徳川家康の最後の言葉とお墓

について詳しく検証していきます。

 

人生100年時代に突入する私たちも長寿の徳川家康の考え方を学び、今の生活に活かせるところがきっとあるはず。

最後まで要チェックですよ!

 

徳川家康の死因真相!好物の鯛の天ぷらが胃がんの原因になった?

“徳川家康の死が好物の天ぷらに起因するものだった”なんて噂、あなたは聞いたことがありますか?

私は初めて聞いたとき、「死因天ぷらって威厳も何もないやん。さすがに嘘でしょ。」なんて思いました。(笑)

しかし死因天ぷら説は一時期最有力視されていた情報だったのです。

 

徳川家康の死因・鯛の天ぷら説の経緯とは?

この説が唱えられた背景は次のようなものでした。

 

1616年京都で流行していた鯛の天ぷらを献上され、上機嫌で食したとされる徳川家康が、翌朝から激しい腹痛を起こしました。

その後症状が好調不調を行き来し、腹痛に初めて襲われてから3か月経った1616年4月17日駿府城にて徳川家康が亡くなったのです。

ここから死因・天ぷら説が浮上したのですね。

 

ただここで注意すべきは、初めて激しい腹痛に襲われてから亡くなるまでに長い時間を有したという点です。

もし食中毒が発症していれば、もっと早いタイミングで亡くなって然るべきと言えます。

高温の油で揚げた料理は、基本的に菌が死滅することからも信憑性が低いと考えます。

 

また医学的見地で研究している歴史家たちからも

「高齢にも関わらず天ぷらのような脂っこいものを好んで食べてたせいで、胃や食道にあった腫瘍が通過障害や腸閉塞等を引き起こしたのではないか」

という推測に及んだ人がいましたが、これらも亡くなるまでに長期間有した点から矛盾があると言われています。

 

徳川家康の家系はがん家系だった

だとすれば、、一番疑うべき健康上の死因はなんだったのでしょうか。

 

江戸幕府が編纂したとして知られている『徳川実記』には徳川家康が晩年、

“吐血・黒色便・腹部にしこり”などの病状を訴え体形についても“みるみる痩せていった”

という記録が見られます。

これは胃がん患者に診られる症状と一致しており、ここから現在は胃がんが徳川家康の死因として最有力と考えられています。

 

徳川秀忠や水戸光圀もがんによる死亡を疑われていることもあり、徳川家はがん家系ではないかと考えられていました。

徳川家康の死因が胃がんであるという推測を後押ししていますね。

 

以上のことから、末期のがんを患っていた徳川家康が鯛の天ぷらを食した際にたまたま体調を崩し、そのままがんが進行して亡くなったと考えるのが一番スマートな考え方と言えそうです。

 

 

その他に囁かれている徳川家康の死因説も解説!

天ぷら死亡説以外の説にはどんなものがあるのでしょうか。

後進に道を譲ったすぐ後に亡くなったとされている徳川家康ですが、その死については謎のベールに包まれたまま歴史研究家の議論の種になっています。

 

ここからは現代社会の食中毒死亡数の半数を占めると言われている

  • フグ毒による死亡の可能性
  • 意志を継いだものが影武者として将軍・徳川家康を演じたのではないか

という説を検証していきます。

 

徳川家康の死因はフグ毒だった?

冬の高級魚の代表格と言って差し支えない、フグ。

猛毒であるテトラドキシンを皮・肝臓・卵巣に多く含むことで知られ、正しい知識を持った有資格者が調理しないと即死する危険性もあることで有名な魚ですよね。

食欲旺盛で新しい物好きで知られる徳川家康は、実はフグの毒で亡くなったのではないかという噂が存在します。

 

しかし、これは結論から申し上げると、かなり信憑性が低い噂話であると言えます。

 

そこには、フグの食すことを禁止した天下人・豊臣秀吉の存在が大きく関わってきます。

1952年朝鮮出兵を試みた豊臣秀吉は、フグ毒への知識がない家臣たちがこぞってフグを食べ死者が続出した事態に驚愕します。

 

「今から戦だ」という時に戦争に使われるハズの命が、バタバタと倒れていった理由が食中毒とあっては激高したのも無理はないかもしれませんね。

 

この経験からフグの食用を全面禁止し、家禄の没収・家名断絶などの厳しい罰則が設けられました。

フグ食の禁止については江戸時代はおろか、明治時代に伊藤博文元首相が山口県のみ食用を許すまで続きました。

 

全国的に解禁になったのは太平洋戦争のあとです。

いくら食への関心が高いからと言って、徳川家康が禁止までされていたフグを安易に口にするとは考えづらいと思いませんか?

鯛の天ぷら説が勝手にアレンジされて生まれた説であると見るのが可能性としては一番高いと思われます。

 

 

徳川家康の死因は関ヶ原合戦だった?

徳川家康はその長い人生の中で様々な戦に参列し、豊臣家を始めとする戦国勢力を握りつぶすことで天下統一を果たしています。

他の戦国大名からの怨恨は大なり小なりあったと容易に予想できますね。

 

他の勢力からの暗殺計画に対抗するため、徳川家康は影武者を用意していたと推測されます。

実際に武田信玄は複数の影武者がいたことが分かっているので、徳川家康にも存在してもおかしくないというわけです。

 

このような時代背景から、

“本当の徳川家康は関ケ原の戦いで戦死したが、勝利したのに将軍が不在では困るため影武者を徳川家康として扱い生きているように見せかけたのではないか”

という憶測があります。

 

この推測のポイントとなるのは大阪堺市南宗寺に存在する、“徳川家康の墓”です。

徳川家康は1615年大阪夏の陣にて絶体絶命の大ピンチに見舞われたことが有名です。

真田幸村の猛攻をなんとかしのぎ逃れようとしましたが、乗っていた駕篭ごと槍で突かれたことがきっかけで戦死したという伝承があります。

 

南宗寺の墓が本墓ではないか、と見ている人が多く存在するのです。

徳川家康のお墓といえば栃木県日光東照宮に存在するものが本墓との考えが主流ですが、なぜ南宗寺の墓が本墓と考えられているのでしょうか。

 

理由は2つあります。

1つ目に徳川家康が夏の陣で使用したとされる駕篭日光東照宮に現在保存されています。

その屋根には槍が貫通したような痕跡が綺麗に残っているのです。

これは伝承されている内容と整合性が取れていますね。

 

2つ目に徳川家康の息子・徳川秀忠が1623年7月10日に南宗寺に参拝し、その後すぐに徳川秀忠が将軍職から退くと孫・徳川家光が1623年8月18日に南宗寺に同じように参拝していたためです。

徳川家は代々この寺を保護し続けてきたことも知られており、その点からも南宗寺の墓が本墓ではないかと考えられているのです。

 

徳川家康には上記の大阪夏の陣以外にも様々なタイミングで死亡影武者説が流れていますが、現時点でそれを裏付ける確固たる証拠は一切見つかっておりません。

小説などでは影武者説を多く見かけますが、あくまで歴史ロマンの域からは出ない説になっています。

 

ちなみに南宗寺にはボランティアの観光ガイドさんによる伝承の説明が聞けるサービスがあります。

ほかにも『千利休一門の供養塔』があったり、国指定の名勝である『枯山水庭園』があり立派な観光スポットです。

優美な庭を眺めながら、徳川家康へ想いを馳せてみるのもいいかもしれませんね。

 

 

徳川家康は大の健康オタクとしても有名だった

実は徳川家康は自分の薬は自分で調合するほど、大の健康オタクであったということが知られています。

幼少期から人質としての生活を余儀なくされていた徳川家康は、かなりの緊張状態に置かれていたためか胃潰瘍になったことがあったようです。

 

自身の体調と向き合う機会も自然と多く、自分の薬は自分で調合したりそこから発展して他大名や家臣に自分の薬を処方したりしていたことが分かっています。

極限から生まれた、まさかのライフハック!!!(笑)

周囲の人間から毒を盛られる可能性も考えて磨き上げたスキルともいえるかもしれません。

 

徳川家康は合戦中にも薬学書を持っていたりと筋金入りの健康オタクだったことが、江戸時代には珍しい75歳での大往生に繋がったというのは間違いないと思います。

 

また食生活にも人一倍健康に気を使っていたことで知られる徳川家康。

44歳のころ胃に腫瘍があることが分かった時に、自分が死んだら一族が滅ぶと強く思い食生活への意識を高くしたことが知られています。

 

食事内容は麦飯と豆味噌中心の1汁1菜の形式にこだわっています。

家康が好んだ麦飯は麦と胚芽の残った米を混ぜたもので、

  • 咀嚼回数が増えること
  • ビタミンやカルシウムなどの栄養分が豊富な点

がメリットとして掲げられます。

 

ダイエットや健康食品に敏感な方からすると、「わかってるな、徳川家康!」と思わず言いたくなる堅実な献立ですね。

 

麦飯については思い入れが人一倍あったとされる徳川家康。これは幼少期の苦い経験が生きているようです。

「昔貧しいころ叔母にお椀に盛ってもらった麦飯の美味しさはどんな美食をも上回る」と豊臣秀吉に語ったとされています。

 

また『名将言行録』という書物には徳川家康が当時粗食と考えられていた麦飯を好む理由を不思議に思い、

近習の1人が茶碗の下部に白米をよそい上部に麦飯をよそったところ徳川家康が機嫌を損ねたエピソードが紹介されています。

 

「戦乱の世で前線にいる兵がまともに寝食できない現状になってなぜ自分だけ出来ようか。自分が粗食にして浮いた分を戦費に回せ」

としたと書かれています。

 

ただの健康マニアではなく“どんな事態になっても生き抜く術”として贅沢をせず粛々と生きていくことを考えていた結果、健康管理に長けた生活を営んでいたと言えそうですね。

 

 

徳川家康の最後の言葉とは?お墓の場所はどこ?

徳川家康の辞世の句として、『東照宮御実記』には2つの句が記されています。

1つ目は、

『先に行くあとに残るもおなじこと 連れて行けぬをわかれぞと思う』

これは自分の死後遺される家臣団への別れの気持ちを詠んだ句と思われます。

 

この時代は主君を追い殉死することが美徳とされていた時代でしたので、あえて今が別れのタイミングだからと強調し追うなと告げたのかもしれませんね。

 

2つ目は、

『嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空』

こちらは人生序盤の苦難に耐え天下統一を果たし、人生の終わりに悔いがないという穏やかな気持ちの表れであるように感じられますね。

 

戦国時代から江戸時代初頭という戦乱の世を安定へと導いた余裕と胆力がある辞世の句だと個人的には思います。

 

さて、亡くなったあとのお墓はどこにあるのでしょうか。

用意周到な性格であった徳川家康ですが、自身の終活もしっかりと行っていたようで『徳川実紀』には遺言が残されていました。

 

『久能山に納め、御法会を江戸増上寺、霊牌は三州大樹寺、御周忌終て下野国日光山へ

小堂を營造、京都には金地院に小堂をいとなみ所司代はじめ武家の輩進拜せしむべし』

とありました。

 

現代語で要約すると、

  • 遺体は久能山東照宮、葬儀は江戸の増上寺、位牌は三河の菩提寺に納めてほしい。
  • 一周忌の法事が終わったら、日光の東照社(小堂)を建造して遺体をそこに移してほしい。
  • 京都の金地院にも京都所司代(東照宮)を建設して参拝してほしい。

とのことでした。

 

まず「やたら細かい!(笑)」とだけ言わせてください。

 

さてこの遺言から読み解ける徳川家康のお墓候補として有力なのは、前述の南宗寺以外に

  • 日光東照宮
  • 久能山東照宮
  • 金地院東照宮

の3つが挙げられます。

 

日光東照宮

まず日光東照宮についてですが、場所は現在栃木県日光市東照宮に存在します。

久能山東照宮に埋葬されていた徳川家康の遺体を遺言通り、一周忌を終えてから移された場所になります。

徳川家康が神格化され、『東照大権現(とうしょうだいごんげん)』として祀られています。

 

徳川家康が眠るとされる場所は“眠り猫”をくぐった先の“奥の院”に宝塔があり、その下とされています。

興味がある方は同じく奥の院にあり、願いが叶うとされている“叶杉”とともに訪れることをオススメします。

 

 

久能山東照宮

次に久能山東照宮についてですが、場所は現在静岡県静岡市駿河区に存在します。

日光東照宮に比べ小規模ですが、徳川家康は生前「久能城は駿府城の本丸」と言葉にしていたほどなくてはならない場所だと思っていました。

 

徳川家康が眠るとされる場所は本殿後方の1000段を優に超える石段を登ったところにある御宝塔です。

徳川家康が後進に道を譲ったあとに移り住んだ場所が駿府城であったため、こちらには徳川家康の晩年をうかがえる品々を展示してある久能山東照宮博物館もあります。

また松平家の菩提寺である大樹寺には、徳川家康をはじめとする歴代の将軍の位牌が並んでいます。

一説によるとここにある位牌は将軍が亡くなったときの身長と同じ高さにしてあるという噂もあり、見てみる楽しみがまた増えるスポットでもあります。

死期が徐々に迫ってきたころの徳川家康が何を考えていたかが気になる方は是非見学に行ってみて下さいね。

 

金地院東照宮

最期に金地院東照宮についてですが、場所は京都府京都市南禅寺にあります。

国の重要文化財に指定されている社殿には、京都で唯一の権現造り・日光同様の色鮮やかな仕上がりが特徴です。

ここには徳川家康の遺髪と念持仏が祀られていると推測されています。

 

この寺院はもともと京都の北山にあった寺を移設したもので、徳川家康の側近であった金地院崇伝が再建復興したものです。

金地院崇伝は『禁中並公家諸法度』『武家諸法度』『寺院法度』を起草した人物にあたります。

 

徳川家康から重要な役職を任される有能ぶりで、“黒衣の宰相”と呼ばれた人物です。

 

金地院にはその他に『亀鶴の庭』と呼ばれる枯山水の庭園があり、知る人ぞ知る国の特別名勝と言われています。

金地院東照宮も含めあまり知られていない穴場スポットなので、メジャーどころは行ったという通な方々に好まれる場所です。

 

以上3つが有力候補と目されていますが、発掘調査は行われていません。

真実を追い求めるよりも徳川家康が苦労して作った安定して平和な世の中を更新していくことの方が今を生きている私たちの役目なのかもしれませんね。



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