織田信長の城まとめ!場所や城下町政策の背景をわかりやすく解説

織田信長といえば、あなたは何をイメージされますか?

『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』に代表されるような残虐なイメージを持つ方もいらっしゃれば、天下統一を目の前にして家臣に裏切られ非業の死をとげた奇人という認識の方もいらっしゃるかと思います。

 

他方、朝廷や寺院が権力を持ち精神性が重視されていた時代に、合理的に改革を推し進めた政治的カリスマという面も持ち合わせているのが織田信長の魅力と言えるかもしれません

この合理的で革新的な織田信長の精神は、織田信長の居城にも随所に表れて昨今でも熱心に研究されています。

 

ここでは織田信長に関する城に着目し、場所や城主そして織田信長の城下町政策の背景を通して改革者としての織田信長に迫っていきます。

「お城なんて全くわからない。」という初心者の方のためにもわかりやすく解説していきますので最後までご覧くださいね。

 

織田信長の城まとめ!場所や城主は?

 

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先祖代々の城を守ることに重きをおく戦国時代にあって、数々の城を渡り歩いたことで有名な織田信長。

織田信長の革新的な考えは住居の面でも健在だったわけですよね。

 

天下統一のために重要なタイミングごとに引っ越しする姿はさながら、“戦国時代の転勤族大名”と呼んで差し支えないと私は勝手に思っています。(笑)

 

さて、織田信長の生涯と城はどうリンクしているのでしょうか?

城を変えるたびに造りに拘りを見せていたところも興味深く、研究者たちに今でも注目されている数々の城。

 

織田信長の戦歴と各城の場所や城主の関係をまとめました。

 

織田信長の那古屋城

 

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織田信長生誕の地として知られているのが、那古屋城です。

もともとは父である織田信秀が今川氏から奪い手に入れた城であり、織田信長は若くしてこの城を譲り受け20歳になるまでこの城で過ごしました。

ちょうど織田信長が「大うつけ」と呼ばれていた頃を那古屋城で過ごしており、人格形成に大きな影響を与えたと考えられます。

 

織田信長が清州城に移った後は織田信長の叔父である織田信光や家臣・林秀貞が城主でしたが、徳川家康がこの跡地に名古屋城を築かせました。

そのため現在は名古屋城の二之丸に那古屋城の石碑が建っています。

そっと建っているので興味がある方は注意深く探してみてくださいね。

 

織田信長の清州城

 

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1551年父・織田信秀が亡くなったため織田家の家督を受け継いだ織田信長は、相続に反対していた他の一族を滅ぼし清州城に移り住んだのです。

これは織田信秀の悲願であった“尾張の統一”を織田信長が成し遂げたという象徴的な出来事になります。

 

清州という場所はもともと東海道や伊勢湾にほど近い交通の要所です。

この場所を自身の勢力範囲の拠点とした織田信長は、尾張を狙う今川義元と必然的に対峙することになりました。

 

1560年織田信長が桶狭間の戦いで出陣したのはこの清州城でした。

1582年7月16日織田信長の後継者を決める目的で開かれた会議である、“清須会議”が行われたのもこの清州城です。

 

現在は城跡の一部が清州公園及び清州古城跡公園となっており、織田信長と濃姫の銅像が建てられています。

映画になっていたので馴染みのある方が多い城かもしれませんね。

 

 

織田信長の小牧山城

 

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今川義元を桶狭間の戦いで破ったことで勢いに乗った織田信長は斎藤龍興から美濃を奪うことを考え、小牧山城を築城し1563年に本拠を移しました。

小牧山城は織田信長にとって初めての築城になります。

 

戦国時代の城といえば堀と土塁で城を守るのが一般的ですが、小牧山城は山頂付近に石垣を築く造りになっています。

このあたりからも織田信長の先見の明が垣間見えますよね。

 

のちに豊臣秀吉、徳川家康による『小牧・長久手の戦い』で徳川家康がこの地に本陣を置いたことから、江戸時代には徳川家康ゆかりの地として保護され入山が規制されました。

そのため堀や土塁が綺麗な状態で現存していることでも有名な城になります。

 

織田信長の岐阜城

岐阜城はその昔、斎藤道山の居城であり稲葉山城と呼ばれていました。

織田信長は隣国の美濃を手中に治めると、1567年に稲葉山城を岐阜城と改名しここに移りました。

ちなみに本拠を移したため、先ほどご紹介した小牧山城は廃城になっています。

 

岐阜城を拠点に構えたことから、天下人へのステップアップを図ることに成功したのです。

織田信長はこの頃天下布武の朱印を用いるようになり、岐阜城には金箔瓦を用いて築城をしています。

つまり戦うための城ではない、自分の力を見せつけるための行動が髄所に見られるようになってきたのです。

 

また“岐阜”という名も古代中国の周が中国全土を統一したところに起因する名前です。

織田信長の権威への執着・天下統一への思いが有形無形問わず表われているのが、この時代の特徴といって差し支えないと思います。

宣教師ルイス・フロイスは、織田信長が山麓に居城を構え城下町を栄えさせる様子を「まるでバビロンの様な混雑なり。」と伝えています。

 

織田信長の安土城

織田信長の権力の象徴であり、また最後の居城として有名なのが安土城です。

日本の城郭史上初の天主の登場や他に類を見ない七層作りの豪華絢爛な城として有名ですが、全容も未だ明らかにされていない謎多き城でもあります。

完成した1579年から3年足らずの1582年本能寺の変で焼失しました。

織田信長は山頂の天主に居住し、家族は本丸付近で生活していたとされています。

 

安土城の大きな特徴として、総石垣に天主を構えている点が挙げられます。

戦闘面などの実性能よりも見た目から権威の象徴としての役割により重きおいて建てられたことが想像されます。

 

 

織田信長が城下町政策を行った背景とは?

 

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「織田信長の城下町政策と言えば?」と聞かれたらあなたはなんと答えますか?

「楽市楽座」「関所の撤廃」と答えられた方、素晴らしいです!(笑)

「日本史の時にやったかもなぁ。」という方、ご安心ください。今から解説して参ります。

 

そもそも、“座”とはなんでしょうか?これは今で言う“同業者組合”です。

座という同業者のチームで市場を独占し、有力大名に税を納めることで新規の業者を締め出すという、現代の“価格カルテル”のような商業形態が蔓延していた時代でした。

 

そこで市場の活性化と新規参入業者を増やすために織田信長が1568年に「楽市楽座令」で座を廃止にしたのです。

さらに関所を撤廃することで関所の通行税で富を得ていた大名の財源や力を削ぎ、商人たちに自由な商売をすることを後押ししたのです。

 

その結果、商業が栄え経済が活性化していったのです。

 

ちなみにこの楽市楽座は織田信長がイチから考えたものではなく、その原点ともいえるものは1549年近江の大名・六角定頼によって「楽市令」が観音寺城の城下町に発布されました。

また、1566年には今川氏真によって「富士大宮楽市」が発令されています。

 

織田信長の城下町政策と居城の度重なる変更は少なからず関係があります。

ターニングポイントの度に居城を変え造りにも格別の拘りを見せていた織田信長にとって、確固たる税収はマストだったわけですね。

 

長期的に財源を増やしていくことを考え、城下町全体の経済を活性化するための城下町政策に打って出たということです。

 

また軍事面でも楽市楽座と関所の撤廃は大きな意味を持っています。

“他の権力者の力を削ぐ”という側面です。

キリスト教の布教活動を認めるなどの海外の文化を受け入れる新しいもの好きな大名というイメージがある織田信長。

これは当時力を持っていた公家や寺院の勢力を止める狙いがあったことが予想されます。

 

その点でいうと、寺院に流れていた関所の通行料である関銭を奪い、自分の財源確保に組み込むという上手さには思わず感嘆としてしまいますよね。

 

経済・軍事力を権力の確立につなげる手腕はまさに戦国時代のカリスマ。

現代に織田信長のような政治家がいたらとぼやきたくなる政治力の持ち主ですよね。



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