坂本龍馬の暗殺犯や狙われた理由!死因や黒幕の真相とは?

“幕末のカリスマ”“江戸末期のスーパーネゴシエーター”などの呼び声が高い、坂本龍馬。

日本史上最大級のクーデターともいえる明治維新の重要人物で薩摩・長州の仲を結ぶ役割を果たしながらも、道半ばで暗殺されるドラマチックな生涯を送った人物ですね。

 

今回は坂本龍馬最大の謎である、“坂本龍馬の暗殺”について迫っていきます。

狙われた理由や暗殺犯として疑われている人物、実は暗殺されていなかったという説についても調べていきます。

 

【近江屋事件】坂本龍馬の暗殺犯や狙われた理由とは?

坂本龍馬の死については未だ真相が明らかになっていない、歴史上最大のミステリーです。

土佐藩を脱藩したただの一商人のような立場にありながら、明治維新の中核を担っていた幕末の志士たちとの強いパイプがあった坂本龍馬。

 

それでいて公家・土佐藩・薩摩藩・幕府の様々な人間から命を狙われていたとされる人物でもあります。

まるで幕末の台風の目のような存在であったことがわかりますね。

 

では坂本龍馬が亡くなったとされる近江屋事件を調べつつ、暗殺犯として疑わしいのは誰なのかまた暗殺に至った動機はなんなのかを探っていきましょう。

 

近江屋事件とは?坂本龍馬の死因や暗殺された場所について

『近江屋事件』とは、1867年12月10日に坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された事件の事を指します。

事件の経緯を見ていきましょう。

 

江戸幕府から追われていた坂本龍馬がもともと宿舎に使っていた“寺田屋”から事件の2週間ほど前に“近江屋”に移ってきました。

事件当日、夕方ごろから中岡慎太郎と坂本龍馬で『三条制札事件』について話し合いが近江屋井口新助邸で行われていました。

 

夜も更けた頃十津川郷士と名乗る客が坂本龍馬を訪ねて来て、それに対応した元力士である山田藤吉が後ろから斬りかかられてしまったのです。

 

この時大声を上げた山田藤吉に対し、「ほたえな!(土佐弁で騒ぐなの意味)」と坂本龍馬が答えてしまったがために刺客に位置がばれてしまいました。

その場で頭や胸を含む数か所を斬られてしまったというのが事の流れでした。

 

斬殺されたと言っても坂本龍馬は即死したわけではなく、初手で額を斬られた時に中岡慎太郎を石川という変名で呼ぶなど機転をきかせて逃そうとしたという話が知られています。

事件当夜に助けを求め難を逃れた中岡慎太郎も、事件の2日後である1867年12月12日に亡くなりました。

この事件は未だに解明されていない不可解な点が多いことで有名です。

 

一番不思議なのはこの近江屋と土佐藩邸は河原通りを隔てた真向かいに位置していたにも関わらず、事件当夜に土佐藩から救いの手が差し出されることがなかったという点です。

「土佐藩と裏で誰かが繋がっていたのではないか」と勘繰りたくもなりますよね。

 

実際に近江屋事件の実行犯は特定されておらず、いろんな説が存在しています。

江戸末期の混乱期であったことや坂本龍馬が多くの勢力から狙われていたこと、確固たる証拠が存在しないことから真実の究明がとても難しいためです。

 

では暗殺者の疑いがある有力な人物をリサーチしていきましょう。

 

 

坂本龍馬の暗殺犯(黒幕)は京都見廻組・佐々木只三郎?

坂本龍馬は実は京都ではお尋ね者という立場で、監視の目を避ける生活をしていました。

1866年寺田屋に伏見奉行所の捕方が坂本龍馬を捕らえようとした際に、逃亡のために坂本龍馬がピストルで二人の捕方を撃ったことが起因しています。

そのため“京都見廻組”という現在で言う警察の役割を担っていた部隊が坂本龍馬を追っていました。

同心が撃たれたことで京都見廻組の中では、“坂本龍馬は凶悪犯”という認識であったことが予想できますね。

 

戊辰戦争後、元京都見廻組の今井信郎は「近江屋事件は京都見廻組による襲撃であった」と証言しています。

その供述によると「実行犯は見廻組与頭・佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安太郎、桂早之助」と明かしています。

 

ただ、これについては、実行犯に名を連ねた人物はすべて戦死者であるという点がややひっかかります。

今井信郎は本当の実行犯が公にならないよう配慮し、これらの人物を挙げたのではないかという疑いがあります。

 

実際に晩年になってこの証言を、否定・撤回しているのです。

「本当の実行犯は明治維新後も生き残っていた今井信郎・渡辺吉太郎、桂早之助、他一名」と述べたと言われています。

 

今井信郎が自供したあと、元見廻組である渡辺篤はまた別の証言をしています。

渡辺篤が死の直前に子孫に残した言葉で、

「実行犯は6~7人。佐々木只三郎、世良敏郎、渡辺篤の計3名を含む。自分たちが近江屋に踏み込んだ際には、坂本龍馬・中岡慎太郎以外に3名の書生の存在を確認している。うち1名は逃走を図った。」

というものでした。

 

もしこれが本当ならば事件の一部始終を知る目撃者が存在することになりますが、今日までその存在は明るみに出ていません。

 

近江屋事件は京都見廻組の立場からすると、任務を遂行しただけです。

本来であれば坂本龍馬の始末を町方に依頼していたり、上官へ報告された記録が残っていてもおかしくない案件のハズです。

 

しかし、京都見廻組の痕跡を残さなかった理由は未だに分かっていません。

この点から京都見廻組はただの実行犯であり、それ以上の権力の存在があった可能性があると指摘する声も歴史研究家の中では多くいます。

 

 

坂本龍馬の暗殺犯(黒幕)は西郷隆盛?

“大政奉還”という江戸幕府の力を残したままで朝廷に権力を返す方法に対して、反対の意志が強かったとされる薩摩藩。

公家の岩倉具視から15代将軍徳川慶喜追討の勅使を受けた同日に、大政奉還がなされたタイミングの悪さもあり、打倒徳川幕府の志を出花でくじかれた格好です。

 

大政奉還を主導していた坂本龍馬を面白く思っていなかったがために、西郷隆盛が暗殺したのではないかという説もあります。

手紙のやりとりをしていたことが文献などからも確認できる間柄の坂本龍馬と西郷隆盛が、なぜ暗殺犯だと疑われているのでしょうか?

 

これは西郷隆盛の維新後の行動にポイントがあります。

前述の元京都見廻組の今井信郎は坂本龍馬暗殺について自供していますが、その赦免に協力したのが西郷隆盛だったことが分かっているのです。

 

そのうえ暗殺実行犯の疑いがある元京都見廻組・渡辺篤の維新後の面倒をみたとされているのも、元薩摩藩士であったとされているのです。

薩摩の人間が坂本龍馬暗殺を間接的に支援していた可能性が少しずつ見えてきましたね。

 

ただ、直接的に手を出さずあくまで支援という形をとった理由が明白ではないので、推測の域を出ない話になります。

さらに坂本龍馬の暗殺に西郷隆盛が関与していたとするならば、考察しなければならない点が他にもあります。

 

第一に大政奉還の前に土佐藩から薩摩藩に連絡があり、薩摩藩は大政奉還に問題ないとの見方を示していたという事実があります。

 

この裏では西郷隆盛と討幕派と言われる中岡慎太郎・板垣退助による武力討幕に関する密約も結ばれているので、薩摩藩という立場から見ると幕府側・朝廷側のどちらについても対応可能な立場にあります。

 

1867年6月22日の薩土同盟がこれにあたるわけです。

そんな中わざわざ坂本龍馬を殺すことにメリットを感じないわけです。

薩摩藩と坂本龍馬の間にある複雑な関係性がクリアになるには、もっと多くの証拠が必要なのは間違いないですね。

 

坂本龍馬の暗殺犯(黒幕)は中岡慎太郎?

中岡慎太郎といえば薩長同盟の締結に坂本龍馬とともに尽力し、近江事件の際にともに襲われた運命共同体のような人物ですね。

2人の信頼関係は厚かったと考えられ、坂本龍馬自身も「中岡に相談しないと、他に相談すべきひとがいない」というほどの関係だったことが知られています。

ではなぜ暗殺説が浮上したのでしょうか?

 

実は剣の腕がかなり立つと言われている坂本龍馬。

その人間が階下で部下が斬られているのに何の用心もせずすんなり襲われるのは考えにくく、その場にいた人間に裏切られ奇襲を受けたのでないかという考えに至ったのです。

 

中岡慎太郎は「陸援隊として蜂起し幕府を倒す」という意志を大政奉還によって妨げられる形となっており、それが原因で坂本龍馬の暗殺を企てたのではないかという推測になります。

『倒幕のために戦の一字あるのみ』という言葉のイメージから、強固な武闘派というイメージがある中岡慎太郎。

 

ただこのイメージは実像と乖離があるという意見もあります。

中岡慎太郎著『時勢論』の中では維新後の日本について語られており、日清日露戦争をはじめとする世界を相手にした戦争の可能性を指摘していました。

 

かなり先見の明がある人物であったことが明白ですね。

そんな人物が安易に坂本龍馬を殺す決断をするのか、疑わしいと思うのは私だけでしょうか?

 

また近江屋の襲撃事件があった際、襲撃犯が伊予弁で「こなくそ(この野郎)」と叫びながら押し入ったという証言をしたのは中岡慎太郎でした。

その証言の際に襲撃犯は新選組だとも、土佐藩士に伝えていたとされています。

 

愛媛の出である新選組の原田左之助や大石鍬次郎らの暗殺の可能性が疑われ、大石鍬次郎に至ってはこの件の暗殺の罪により殺されています。

もしも暗殺に間接的にでも関与していたらこんな証言する動機が分からないというのも、ひっかかる点ですね。

 

近江屋事件当時は坂本龍馬の知名度は低く、実は中岡慎太郎が狙いの本丸で坂本龍馬は巻きこまれただけという可能性を指摘する声もあります。

うーん。いろんな説を見れば見るほど、どれも怪しく見えてきますね。(笑)

 

 

坂本龍馬は暗殺されていない説もある

坂本龍馬は近江屋事件で暗殺されておらず、明治の世を生きていたのではないかとする噂があるのをご存じですか?

幕末の頃坂本龍馬は薩長同盟の間を取り持ったことで有名になりましたが、その時に武器商人として長崎に出入りしていたトーマス・ブレーク・グラバーとの縁が出来ました。

 

「トーマス・ブレーク・グラバーで誰?聞いたことないんだけど。」という方。

長崎に修学旅行に行ったら必ず見るであろう『グラバー邸』のトーマス・ブレーク・グラバーです。

 

坂本龍馬暗殺の噂を耳にした伊藤博文を始めとする幕末の志士のトップたちは、グラバー邸の屋根裏部屋でいかに坂本龍馬を助け出すかを話し合っていたという推測がありました。

 

さらに、このような繋がりから、

“近江屋事件で亡くなったのは影武者で本物は生きて岩倉具視らに匿われ、岩倉使節団に同乗しトーマス・ブレーク・グラバーを介してスコットランドに渡ったのではないか”

という説が存在するのです。

 

ただこの噂は、あくまで都市伝説であることをグラバー園職員の方が当惑している様子から伺い知れます。

「グラバー邸の屋根裏部屋は1887年に増改築した際に作られたもので、幕末の時点では存在しえないもの。なぜこんな嘘が語られているのかわからない。」

とのことです。

 

この誤報の拡散に一役買ってしまった可能性があるのは、他ならないグラバー邸にある看板だと言われています。

この看板には隠し部屋が幕末に存在したという主旨の記述がなされており、いつからこの看板が立てられたかなどの詳細は不明ということでした。

身から出た錆という悲しいオチですが、夢のある話だとも言えますね。

 

 

坂本龍馬の墓の場所は高知ではなく京都にある?

坂本龍馬のお墓は実は、“清水の舞台”で有名な京都市東山区清水寺の近くにあるのをご存じでしたか?

しかし、高知県の護国神社には祀られてはいるものの、遺骨があるのは亡くなった京都であったというのが真相です。

 

清水寺・高台寺の近くに『維新の道』と書かれた石碑のある急こう配な参道を登っていくと、京都霊山護国神社にたどり着きます。

そこには坂本龍馬だけでなく、木戸孝允・高杉晋作など維新のために散った志士たちのお墓が並んでいます。

 

人物が有名だから致し方ないのですが、日本で唯一拝観料が必要なお墓でもあります。

坂本龍馬や中岡慎太郎の像がありますが、観光スポットとしてはややマイナーな知る人ぞ知る場所になっています。

産寧坂や坂本龍馬・中岡慎太郎の像がある円山公園もある“ザ・京都の観光名所”がひしめくエリアにありますので、興味がある方は行ってみて下さいね。

 

ちなみに坂本龍馬の命日である11月15日には毎年、龍馬祭が行われています。

高知の有名な“よさこい”を朝から見られたり、坂本龍馬が死の直前にも食べたがったという“軍鶏鍋”がふるまわれるイベントになっています。

坂本龍馬か中岡慎太郎の名刺が配られるサービスもあるようですので、我こそは幕末ファンという方は遊びに行ってみて下さい。

 

 

近江屋事件の跡地はどうなっている?

近江屋事件の跡地は現在(令和2年1月現在)、川原町通の繁華街にある回転ずし店の敷地になっており石碑が建っています。

石碑には『坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地』と刻まれておりますが、それ以外に特に目立つものはありません。

 

日本の歴史上の人物の中でも指折りの人気者である坂本龍馬の最後の場所としては、かなりひっそりと地味な印象は拭えません。

 

ちなみに坂本龍馬が暗殺されたとする近江屋を復元したものが、高知県の坂本龍馬記念館にあります。

こちらは坂本龍馬生誕150周年を記念し建てられた、美術館と間違えるほど美しいモダンな建物です。

 

暗殺2日前に書かれたとされる陸奥宗光宛ての書簡の本物などが展示されており、展示物の歴史的価値の高さはピカイチです。

史料も含め坂本龍馬最後の瞬間を考えたい方は、そちらに足を運んでも面白いかもしれませんね。



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