シューベルト【魔王】の解説をわかりやすく!日本語歌詞と意味は?

オーストリアの作曲家として、管弦楽、教会音楽、ピアノ曲など多くの名作を生み出したシューベルト。

今回は、シューベルトの代表的な作品である「魔王」について触れていきます。

 

確かに有名な一曲ではありますが、なぜ「魔王」という題材なのか。

なぜ「魔王」だけが常に教科書で紹介されるのか、そもそも「魔王」とは何なのか…

誰もが音楽の授業で必ず聴いたことがある、シューベルトの「魔王」の意味やストーリーについて紹介していきます。

 

シューベルト【魔王】のあらすじをわかりやすく解説

「魔王」は、ゲーテの「魔王」という詩を元に、オーストリアの作曲家シューベルトが作った歌曲です。

シューベルトは、歌曲が有名な作曲家で、「魔王」以外にも、「ます」「野ばら」などが教科書に載っています。

 

その数々の中でも特に教科書によく載る歌曲が「魔王」です。

「魔王」は、シューベルトが18歳のときに作曲し、なおかつたった数時間で完成させたと言われています。

 

まだ18歳という少年のシューベルトが刺激を受け、たった数時間で曲を書き上げた「魔王」。

いったいどんな話なのでしょうか?

まずはあらすじをじっくり見ていくことにしましょう。

 

魔王の登場人物は?

「魔王」は先ほどもお話したとおり、詩をもとに作られた歌曲です。

歌手が一人で登場人物を歌い分けるという難しいものになっています。

 

「魔王」の登場人物は4人で、語り手、子供、父親、そして魔王です。

  1. 曲の最初と最後に話の大まかな内容を語る語り手。
  2. 高熱にうなされ、眼に映るものが魔王やその仲間のように感じ怯える子供。
  3. 具合の悪い子供を急いで医者に連れて行くために必死で馬を走らせる父親。
  4. 甘い言葉とたくみな話術で子供を自分の元へ誘おうとする魔王。

 

4人も出てくる登場人物の、それぞれの心情や状況を、声のトーンや歌い方によって歌い分けるのですから、とても難しい歌曲と言えるでしょう。

昔聴いた「魔王」では、子供を自分の元へ誘う魔王の甘ったるい声と歌い方にぞっとした記憶があります。

 

魔王のあらすじと日本語歌詞の意味を解説

「魔王」は、夜の道を馬に乗った父親と子供が走り抜けるシーンから始まります。

普通に走っているのではなく、子供は父親の腕にしっかりと抱えられていて、具合が悪そうです。

この父親は、高熱を出した子供を休ませるために、どこかへ向かって馬を走らせているのです。

 

急いで馬を走らせるうちに、子供は幻覚や幻聴にうなされます。

熱にうかされた子供には、周りの木々や風のうねりが魔王の声のように感じられます。

父親に魔王のことを必死に訴える子供ですが、父親には魔王の姿は見えず、父親にできるのは、馬を走らせることと、子供を励ますことだけ。

 

魔王はしきりに子供に向かって甘い言葉をかけて誘います。

かわいい子供を力ずくでも連れていく、という魔王の言葉のあと、気づいた父親の腕の中で子供は息を引き取ってしまっていました。

というのが、「魔王」のあらすじです。

 

この次に紹介しているのは、音楽の授業で習う「魔王」の歌詞です。

魔王(Erlkönig)

風の夜(よ)に馬を駆(か)り
駆けりゆく者あり
腕に童(わらべ)帯びゆるを
しっかとばかり抱(いだ)きけり

坊や なぜ顔を隠すか

お父さんそこに見えないの
魔王が居る 怖いよ

坊や それは狭霧(さぎり)じゃ

かわいい坊やおいでよ
おもしろい遊びをしよう
川岸に花咲き
きれいなおべべがたんとある

お父さん お父さん 聞こえないの
魔王が何か言うよ

なあに あれは
枯れ葉のざわめきじゃ

坊や一緒においでよ
よういはとうに出来てる
娘と踊って遊ぼうよ
歌っておねんねもさしたげる
いいところじゃよ さあおいで

お父さん お父さん それそこに
魔王の娘が

坊や 坊や ああそれは
枯れた柳の幹じゃ

可愛や いいこじゃのう坊や
じたばたしてもさらってくぞ

お父さん お父さん 魔王が今
坊やをつかんで連れてゆく

父も心 おののきつつ
あえぐその子をいだきしめ
辛くも宿に着きしが
子は既に息絶えぬ

「おとーうさん、おとうさん」のあたりを真似したことのある人、たくさんいるのでは?

 

 

「魔王」の定義とは?解釈が人によって違う?

「魔王」のあらすじはわかりましたが、なぜ「魔王」なのでしょうか?

現代の私たちが持つ「魔王」のイメージと言えば、「世界中の人類を滅ぼす」とか、「世界を支配する」などのスケールの大きな存在。

小さな子供をさらうようなことに力を裂く存在ではないですよね。

 

しかも、最終的に命を奪う、となると、「魔王」というより「死神」なんじゃないだろうか、と思ってしまいます。

歴史を辿ってみると、どうやら日本に入ってきたときに、原題である「Erlkönig」をうまく訳す言葉がなく、「魔王」になってようです。

 

シューベルトの「魔王」は、ゲーテの詩を元に書かれたものですが、ゲーテの「魔王」にも元々下地となる話があります。

そのとき、「魔王」にあたる存在は「妖精の王」でした。

 

「妖精王」→「妖魔王」→「魔王」と訳され、「魔王」に落ち着いたわけですが、妖精王と妖魔王だと全然イメージが違うではないか、とツッコミを入れたくなりました。

 

「魔王」をどう定義するか、もですが、曲全体への解釈も様々です。

 

説1:魔王=病気

まず、「魔王自体が病気であり、病気に負けて子供が死んでしまう」という解釈。

話の流れ的にも納得の解釈ですよね。

病気に気に入られ、連れて行かれてしまう、という意味では、あらすじに沿った解釈かと思います。

 

説2:魔王=父親

そして、もう1つが「実は父親自身が魔王であり、父親からの扱いによって子供が死んでしまう」という解釈。

なかなか穿った見方にも感じますが、寒い夜の暗闇の中を、病気で高熱の子供を連れて馬で疾走するのは、ちょっとおかしさもあります。

今なら安静にして過ごしますもんね。

 

また、この解釈は父親がまったく子供の話を信用しない、という点からも裏打ちされます。

子供が「魔王の声が。」といくら言っても、このお父さん、「そんなはずはない」の一点張り。

 

実は曲にもしっかりしかけがあり、父親と魔王のメロディーはやや似ているのです。

子供にとってお父さんは本当に味方なのか、わからなくなる話ですね。

 

説3:魔王=大人になるための通過儀礼

そして、「子供から大人になるための通過儀礼」という解釈。

数々の魔王の誘惑に父親の力を借りず(借りれず?)に立ち向かい、結果として試練を越え、大人になったという捉え方でした。

子供の死は、「子供である時期の死」であり、子供自身が死んだわけではない、という解釈でちょっと目新しく感じましたよ。

 

 

 シューベルト【魔王】はなぜ中学の教科書に載っているの?

シューベルトの「魔王」は、かれこれ50年にも渡って教科書に載り続けているのだそうです。

確かに素晴らしい作品ではありますが、ほかにも名作と呼ばれるものは数々ある中で、なぜずっと教科書で扱われているのでしょうか?

 

文科省にでも問い合わせない限り、明確な回答は得られないですが、「魔王」を題材にした研究授業の報告書を見る中で、共通することがある点に気づきました。

・一人が何人もの登場人物を歌い分ける凄さがある点

・詩を元に、そのイメージにあった作曲がされており、当時の詩と音楽との関係性が見える点

・それぞれの登場人物に合わせてメロディーや曲調を変えており、伴奏のピアノも大変な技量を必要とする何曲である点

 

などが共通していました。

 

実際シューベルトの「魔王」は、オペラや交響曲と比べれば比較的短く、鑑賞しやすい曲です。

 

しかし、その中に、4人の登場人物が入れ替わり立ち替わり現れ、その度メロディーも、歌手の声色や歌い方も変化するという、密度の濃さがあります。

1曲を聞く間にさまざまな感じ方ができる、鑑賞にふさわしい曲なのかもしれませんね。

 

 

 シューベルト【魔王】に対する感想や評価は?

ネットなどでシューベルトの「魔王」への感想を見ていると、「トラウマ」「暗い気持ちになる」「結末にショックを受けた」などマイナスな感想を多く感じます。

 

そのわりに、「魔王」という曲のファンの多さもよく見受けられました。

確かにショッキングな内容ではありますが、中身の濃さ、歌詞に合わせた多彩なメロディーなど評価される点も大きいのでしょう。

 

しかし、今でこそ評価されているシューベルトの「魔王」ですが、完成した当初はまったく評価されませんでした。

元となった詩を書いたゲーテにも酷評され、出版・初演までに6年もかかったのです。

 

発表当時は酷評だったかもしれませんが、私たちの心に深く印象を残す名曲であることは間違いありません。

中学生の授業で聴いたことがある人も、今の自分が聴くとまた違った感想を持つかもしれません。

ぜひシューベルトの「魔王」にもう一度触れてみませんか?



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。